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クジラの話

捕鯨船と日本

竜田揚げ  sasimi
学校給食で鯨の肉を食べたり、鯨の刺身を美味しそうに大人が食べる様子を見てたので、私は普通に肉や魚を食すのと同じ感覚でした。

捕鯨の賛否が大きく議論になったのはいつ頃からでしょうか。

勝てば官軍の世論

捕鯨
捕鯨そのものの歴史で見てみると、乱獲や環境への影響を及ぼすほどの問題が起きた原因は明らかでしょう。

数値で表す記事があったので参考にしました。



1611~12 年にはイギリスとオランダが北極圏で捕鯨を開始。

1620 年イギリスからアメリカのケープコットに 100 人が入植していますが、この海域の鯨が目的の 一つでした。早くもこの年ボストン経由でイギリスに鯨油の輸出がされています。
入植者自らには捕鯨の技術がなかったため捕鯨技術を持つインディアンが捕鯨に使われています。
始めは冬場に沿岸に現れ、ヒゲがあり死んだ後も沈まない比較的小型のセミクジラが捕られていましたが、 航海技術の進歩により外洋の大型のマッコウクジラが捕られるようになります。


つまり、自然の恵みを利用していたが足りないから、生きているクジラを捕まえて売ろうとなったわけですね。

りゅうぜんこう  こうすい
マッコウクジラには高価な歯や香水の材料となる竜涎香(りゅうぜんこう)や、平均で 1 トンの上質な脳油が捕れたのです。
脳油
脳油は脂皮からとれる油より色が淡くにおいが薄く、空気に触れるとペースト状になるため他の脂の 3~4 倍の値段がつきました。

羊毛
オーストラリアの産業というと羊毛が浮かびますが、1830 年代初頭までの最大の産業は捕鯨 でした。さんざん日本の捕鯨を批判している国ですよね。

それまでのあらゆる産業の中で一番大きな利益を上げていたのです。

1839 年を境に大西洋に向かう捕鯨船の数を太平洋に向かう捕鯨船の数が上回ります。
乱獲ですでに大西洋では取りつくしてしまい、セミクジラとホッキョククジラはほぼ姿を消しました。

アメリカの 1844 年から 1848 年までの 5 年間の鯨油の産出量から鯨の頭敦を計算しますと マッコウクジラが約24860頭、セミクジラが約22270頭で、7年ほどでセミクジラが32倍、マッコウ クジラが2・8倍に捕鯨量が増えています。

1846年にはアメリカの捕鯨船の数は735隻、7万人が捕鯨産業にかかわっていました。

クジラ以外にもチリ・ペルーの海域でアザラシが1800年から6年だけで300万枚の毛皮にされ、 南太平洋の白檀・なまこを中国との交易のために採りつくしています。

マッコウクジラは1843年に、セミクジラは1850年に捕鯨のピークを迎え、ケープコットの捕鯨船の出漁の最後は1868年ですからその短期間での乱獲ぶりが分かります。


くじらダンス

20世紀に入り、1904年から1978年まで南氷洋だけで
シロナガスクジラが331042頭  
ザトウクジラ68307頭 
イワシクジラ149735頭 
マッコウクジラ143020頭  
不明9066頭の以上 合計1393254頭の鯨が捕獲されています。
取り逃がしたものやその他の海域で捕獲されたものは入っていません。
当時のアメリカでは脳油や皮下脂肪を採り機械油やろうそく・灯油液体・石鹸・ペンキ等が 作られ残りは捨てていました。

余すことなく使い切る日本のクジラ産業とは異なったようです。



日本の捕鯨は

くじら供養  供養碑
元禄4年1691年から享保13年1728年までの平均で日本の捕鯨量は年500~600頭と推定さ れています。
日本の捕鯨に従事する人々はどの捕鯨地にも共通していることですが、鯨墓や供養碑、 さらに戒名や位牌(いはい)までつくって捕獲したクジラを手あつく供養しております。
そこには商業主義と違った文化があります。


トキ
ただ、日本でもトキのように乱獲により絶滅しまった生き物もいるのは事実です。

欧米が捕鯨をしなくなったのは、需要の変化によって捕鯨が不要になっただけです。
生き物の尊厳や、今言われる動物愛護の観念など全くありませんよね。


私は環境活動家ではありませんが、環境は大事だと思っています。こうした過去の問題を私たちは正しく知っておく必要があるのではないでしょうか?

今の化石燃料問題にも同じ事が言えます。



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